写意画・無根樹100首-第70首#314

無根樹の詩には、天地との調和、陰陽の循環、無限の可能性を秘めた「根源的な力」が表現されています。
この絵は、中国の武当山に代々伝統的に伝わってきた、符図として観念を写意した写意画で、行気(ぎょうき=気の流れ)によって、観念化された意が画面に宿る技法にて描きます。
道(タオ)の世界には、「符図(ふず)」と呼ばれる霊的・象徴的な図像があります。
これは一種の呪符でありながらも、単なる宗教道具にとどまらず、写意的に描かれた霊的絵画で、観る者の精神面に直接働きかける精神感応的な美術としての力を持っています。
そのため、古来より多くの人々が、不老長寿、健康、吉祥、家庭の調和などを願い、こうした道家的写意画や符図を自宅や書斎、寝室に飾ってきたのです。絵を見ることは、単に美を愛でるのではなく、生活に「道」の気配を招き入れ、心身を調律するための行いとされていました。
このように写意画は、単なる絵画表現にとどまらず、人の精神・生活・宇宙との調和を媒介する芸術です。
この写意画は、「目で見るもの」ではなく「心で感じるもの」です。
それは道(タオ)と通じ、自然の気と共鳴し、観る者の内面を静かに動かす力を持ちます。
符図や写意画は、古より今に至るまで、”人の魂に語りかける「霊なる絵」”として息づいているのです。
下記にこの写意画の意となる「哲理詩」無根樹の原文と、現代日本語訳とその解釈を添えておきましたので、是非お読みください。
※無根樹の作者「張三丰(1247年〜?)」は、太極拳を確立した人物としても有名で、太極拳にもこの無根樹を適用しました。補足として、武当山に伝わってきた太極拳との関連解釈も記載しておきました。
無根樹・第70首

原文
無根樹,花正開,陰陽歸一氣自來。太極自然無所執,真功顯現在人間。
現代日本語
根のない木に、花が今まさに咲き誇る。陰と陽がひとつに帰し、気は自然とやって来る。太極は自然にして執着がなく、真の功は人の世界にこそ現れる。
解釈
この詩は、「究極の調和と真の実践の現れ」を描いています。陰陽が融合し、太極が自然な形で道を体現することによって、本当の力(功)は形式ではなく、日常の中に表出します。【1】無根樹,花正開(むこんじゅ はなまさにひらく) 根のない木に花が咲き開く。これは精神や修練が成熟し、開花する瞬間を象徴します。 執着のない存在からこそ、純粋な美が生まれます。【2】陰陽歸一氣自來(いんよういちにきし きおのずからきたる) 陰と陽が対立ではなく調和し、一つとなることで気の流れが生じます。 この「自然発生的な気」は修為の極みにおける無作為の結果です。【3】太極自然無所執(たいきょくしぜんにして しゅうするところなし) 太極の本質は自然無為であり、何かに囚われたりこだわったりしない状態です。 これは道(タオ)思想における「無執着」の理想にも通じます。【4】真功顯現在人間(しんこう じんかんにあらわれる) 見せかけでない、内に積み重ねた真の功は、自然と人の世に表れてきます。 それは無言の行動、姿勢、ふるまいの中ににじみ出るものです。
太極拳との関連解釈
第70首は、太極拳の最終的な修養の境地を象徴しています。【1】無根樹,花正開:修練の成果の顕現 技術の反復と内面の修養によって、ある時期に花は自然に咲きます。【2】陰陽歸一氣自來:陰陽合一と気の流れ 太極拳の動作には陰陽が常に内在しており、それが調和すれば、気は滞りなく自然に現れます。【3】太極自然無所執:型に囚われない体得の域 ある段階になると、型を離れ、自然体で打てるようになります。そこには執着がありません。【4】真功顯現在人間:日常の動きが修練の証 舞台で演じるのではなく、日々の動作や精神に功が現れる。それこそが太極拳の「無声の証明」です。
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